高田總鎭守氷川神社のご紹介
御由緒
写真
高田總鎭守氷川神社の創建…貞観年間(平安時代)

 高田總鎭守氷川神社の創建は、今から約1130年以上の昔、第56代清和天皇の御代である貞観年間(859~877)に、
旧官幣大社・氷川神社の御分霊を現在の地に奉斎したと伝えられている。
 江戸・明治の覚書によると、

 『古来、山吹の里氷川宮、後氷川大明神と奉称された。』
 『高田邨總鎭守氷川大明神ト称来候処明治二巳年中ヨリ氷川神社ト改称 其後明治五申年十一月八日村社ニ被為定候事』
 (高田村總鎭守氷川大明神と称し来たりそうろうところ、明治2の年中より氷川神社と改称
 其の後明治五サルの年の十一月 八日村社にこうむり定め候事なり)
 『第九代區壱小區 高田村總鎭守氷川神社 (明治七年十月十三日調書)』
 明治四十年五月四日、神饌幣帛料供進神社に指定される。とある。
 氷川神社は素盞嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命を奉祀し高田總鎭守なり。
 (豊島區髙田南町・髙田本町・目白町・文京區髙田老松町の総氏神である)
 その創建は貞観年間と申傳ふ。徳川三代将軍家光公御鷹野の砌、御拝禮再三御祈願 おおせつけられ(仰付けられ)、
 古跡除地(こせきのぞきち)たりしと云ふ。
 初め山吹の里氷川宮、後氷川大明神と奉称し、明治二年氷川神社と改称し奉り、
 同五年十一月八日村社に定められ、同四十年五月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
 昭和廿一年国家管理を離れ、同年六月宗教法人令に依る諸手続きを完了せり。
 『昭和貮拾五年壹月貮拾五日 原文まま(句読点のみ加筆)』

御祭神と御神徳
素盞嗚尊
氷川神社主祭神

八岐大蛇の神話で名高い英雄神です。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
という日の本で最初の歌を詠まれた尊い神様でもあります。

厄除け・八方除け・受験合格・勝負・開運・社運隆昌  等
奇稲田姫命
素盞嗚尊のお妃神
家内安全・良縁祈願  等
大己貴命
素盞嗚尊・奇稲田姫命の子孫神

出雲大社(いづもおおやしろ)の主祭神の「大國主命」他、数多くのお名前があります。
因幡白兎の神話や少彦名神との国土経営などの神話で有名です。

医療の神・商売繁盛・金運・福授け  等
 日本で初めて詠まれたといわれる歌です。須佐之男命(すさのおのみこと)は妻となる櫛名田比賣(くしなだひめ)と住む所を出雲の国に求め、「わたしはこの地にきて、心爽やかで気持ちがよい」と宮殿を建て始めます。するとそこに雲が立ちのぼる……その景色を見て歌ったのが冒頭の歌。〈雲多く湧き起こるという出雲の国の名にふさわしく、湧き出る雲が織り成す八重の垣。妻を静かに籠らせようと雲はつくるよ八重の垣。
ああその八重の垣よ〉という意味のこめられた歌です。須佐之男命が心爽やかにこの歌を詠むまでには、八俣遠呂智(やまたのおろち)との戦いがありました──。
 出雲の国の肥河(ひのかわ)にたどり着いた須佐之男命。河上に若い娘と泣いている老夫・足名椎神(あしなづちのかみ)、老女・手名椎神(てなづちのかみ)がいたので、どうしたのか尋ねると「目が赤くて、ひとつの体に八つの頭と尾を持つ八俣遠呂智という大きな怪物に、年ごとに娘を喰われてしまって……。残った
この櫛名田比賣も、もうすぐ喰われてしまうのです。」と足名椎神は答えました。
 須佐之男命が、「わたしにその娘をくれるのなら、化け物を退治してあげましよう。」ともちかけると足名椎神は、須佐之男命が天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟と知り了承します。
 すると櫛名田比賣を櫛に変えて髪に差した須佐之男命は、「お酒を造ってから垣根をめぐらし、そこに八つの入り口を作り、入り口ごとにお酒を入れた器を据えて待っていればいい」と言います。足名椎神は言われるまま用意し、待っていると八俣遠呂智が現れました。
 八俣遠呂智は、そこで酒を飲み始め、酔って寝てしまいます。須佐之男命はすかさず腰につけていた剣で
大蛇を切りさきました。すると肥河の水は大蛇の血で真っ赤に。中ほどの尾を切ろうとしたときに剣の先が欠けたので割いてみると、そこから大刀がでてきたのです。
 その大刀を、須佐之男命は事情を話して姉の天照大御神に献上しました。これが草那藝之太刀(くさなぎのつるぎ)です。

(神社本庁 広報誌より)

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