江戸時代の寛政2年(1790)正月、当時高田四つ家町に下屋敷のあった稲垣摂津守様の御寄進によるものです。 右柱 『石華表一基奉献 武州豊島郡高田邑氷川大明神 社前 寛政二庚戌年正月吉日』 左柱 『志摩州鳥羽城主 従五位下對馬守稲垣氏 源昭央謹識』 |
鳥居をくぐるとすぐに石造の太鼓橋があります。明治十丁丑年(1877)と碑名されています。砂利場・高田四つ家下町の方々からの御寄贈です。 |
平成2年(1990)12月に新しい狛犬が奉納され、東門 石造鳥居を入り右側(神社境内の北東・鬼門の位置)に設置されました。 『文化四丁卯年十二月吉日(九日) 願主 山和屋銕治郎』という碑名があり、江戸時代の文化4年(1808)の奉納であることがわかります。 この狛犬は東京大空襲の戦禍により炎を浴びヒビが入りました。移設後の現在、阿形のお顔はありませんが、吽形とともに仲良く鎮座されています。 |
明治十丁丑年(1877)、鶉山中の碑名があります。太鼓橋と同時期の奉納で、西南戦争の年にあたります。 |
江戸期の奉納で御社殿に向かって参道左側、御水舎の左側にあります。 |
参拝をする前に、両手・口を濯いで心身の清めをするところです。 龍口のある丸い石造物は、戦前まで井戸として使っていたものを移設しました。 また、後部の龍口は角が破損した時に修理をして御厨に大切に仕舞われていましたが、その御姿を参拝の方々に知っていただけるように、現在の龍口とともに井戸の中央に設置をしています。 |
画面手前の大きな土橋が俤(おもかげ)の橋〈下は、井之頭から流れている神田上水〉で、遠くに見える小さな板橋が姿見橋である。(略)
黄金に輝く稲田は氷川田圃、画面を通っているのは鎌倉街道で、左に曲がったあたりは砂利場といわれ、この辺の川岸から砂利がとれたという。
その向こうの杉林の中に氷川明神社があり、向かいが大鏡山南蔵院。
寺の入り口には、太田道灌で有名な『山吹の里』の碑がたっていた。
道灌が雨にあい、農家で蓑を借りようとしたところ里女が出てきて、山吹の一枝を差し出した。そして「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」の古歌を示して断ったという。今は面影橋のたもとにたっている。俤橋辺の蛍の形は大きく光も一段と美しかったという。
川の水のよどみや稲田に、深み行く秋の風情がただよっている。
黄金に輝く稲田は氷川田圃、画面を通っているのは鎌倉街道で、左に曲がったあたりは砂利場といわれ、この辺の川岸から砂利がとれたという。
その向こうの杉林の中に氷川明神社があり、向かいが大鏡山南蔵院。
寺の入り口には、太田道灌で有名な『山吹の里』の碑がたっていた。
道灌が雨にあい、農家で蓑を借りようとしたところ里女が出てきて、山吹の一枝を差し出した。そして「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」の古歌を示して断ったという。今は面影橋のたもとにたっている。俤橋辺の蛍の形は大きく光も一段と美しかったという。
川の水のよどみや稲田に、深み行く秋の風情がただよっている。
「高田姿見のはし俤乃橋砂利場 東京伝統木版画工芸協会
解説から」
解説から」